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どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ67 – 天使の沙羅

杏子たちが働くオフィスが入っているビルは大手不動産会社の所有だ。
そのビルの管理・運営自体は系列会社が請け負っている。
江元さんはその管理会社の部長で実質各テナントへの連絡事項、賃貸料の交渉、その他を取り仕切っている。
杏子がタンさんから漏れ聞いたところによると、江元さんはこのビルを外資系企業その中でも特に観光産業にかかわる会社でまとめる夢を持っているらしい。
自分の定年退職までに実現して花道を飾りたいと考えているそうだ。
夢は夢のまま終わりそうだとタンさんは最後に付け加えた。
江元さんはけなげにもその叶いそうにない夢のために英会話を必死に勉強している。
少なくとも本人がそう言っている。
高額の英語教材を買い、買ったことで満足し、その教材で勉強はしていない様子だ。
なぜなら、タンさんと英語で会話する時の江元さんは、漫画で言うと吹き出しの中がすべてカタカナ、しかもぶつ切りの単語だったから。

そんな江元さんにとってタンさんは格好の実戦形式の英会話練習相手だ。
時々タンさん目当てにオフィスを尋ねて来る。
ドアを少しだけ開けて、その隙間から顔をちょこっとのぞかせ杏子の方を見る。
タンさんのオフィスの方向を指指し、

「いる?」

と尋ねるのがいつものパターンだ。
タンさんは比較的忙しい立場の人間だ。
結果、杏子がタンさんに確認して丁重にお断りすることが多かった。
それでもタンさんはサービス業に携わる端くれとして、
門前払いは申し訳ないと思っているのか
都合の付く時は江元さんを自分のオフィスに招き入れゆっくり話もする。
ランチにも一緒に出掛けるし、たまには一緒に飲みに行くこともある。
カラオケに二人で言って盛り上がる時もあるらしいことはタンさんから聞いている。

一か月の真ん中あたり、木曜日の午後の比較的ゆったりとした時間に
タンさんの暇を嗅ぎ付けたかのように江元さんが来た。
モグラたたきのモグラの如く少し開いたドアの隙間から
ひょっこり顔を出した。
すぐさま杏子はタンさんのオフィスをのぞき込んだ。
タンさんは本国から届いた新聞を机の上に山積みにして読み漁っていた。
江元さんが来たことを伝えると珍しく嬉しそうにオフィスから出てきた。
よほど暇だったのだろう。
そそくさと江元さんを自室に招き入れた。

タンさんは江元さんとの世間話をエクスチェンジレッスンと称している。
タンさんが日本語の練習、江元さんは英語の練習。
効率の良い語学学習の方法かもしれない。
長くなりそうだと思った杏子は二人にお茶を出すことにした。

季節は初夏、オフィスでも水出し麦茶を作り始めたところだ。
当初、杏子が毎朝準備していた。
あるとき、それを見かけた杏子を勝手に崇拝してやまない沙羅ちゃんが
話かけてきた。

「杏子さん、それ明日から私やります。
それぐらい簡単だし、朝早く作らなくても
前の日の夕方帰る前に作っておけばいいから私だって出来ますよ。
杏子さんはいつも朝早くきていろんな準備で忙しいからやらせてください。」

杏子の目には沙羅ちゃんが一瞬天使に見えた。
その日から、夏の間オフィスの麦茶作りは沙羅ちゃんの役目となった。
杏子が見る限り毎日ちゃんと準備して帰っている。

やればできるじゃん!

杏子は沙羅ちゃんに初めて心の底から任せられる仕事があったことを喜んだ。

杏子は江元さんに出す麦茶の準備を始めた。
スタッフルームで まず木製の茶たくを2枚お盆に並べる。
次に、ガラス製のお茶碗を2客。
冷蔵庫に入っている麦茶の入った容器を手に持ってみる。
キーンとしっかり冷えている。
やっぱり夜作っておくと朝には冷えて飲み頃だわ。
沙羅ちゃんありがとう。

そんなことを思わずつぶやいてしまった杏子。

そしてタンさんのオフィスにお盆に乗せた麦茶を運んだ。
江元さんの目の前のテーブルに麦茶を置くと、

「おっ、もう麦茶の季節だねぇ。
暑くなってきたからこういう冷たいものが嬉しい季節だね。」

と言っていたかと思うと、
次の瞬間タンさんのほうを向いて

「ホワット ドゥー ユー セイ ジス?」

と江元さんがタンさんに尋ねた。
杏子は二人が会話のレッスン中だと思いだし、
邪魔しないようにとそそくさとタンさんのオフィスを出た。

小一時間ほど二人のレッスンは続きその後
江元さんは満足げに去って行った。

茶碗を下げに行った杏子に、タンさんが言った。

「この麦茶はいつものと違うね。新しいの?」

沙羅ちゃんは違う種類のを買ったのかもしれない…

そう思った杏子は、

「そうかもしれません。」

と答えた。

タンさんはもともと中国茶しか飲まない。
中身がほとんど残っていたタンさんのお茶碗。
一方、江元さんのは空っぽだった。

確かに喜んでたんもんね。

杏子はいいことをしたと思った。

茶碗を片付けにスタッフルームに戻った杏子は
自分ものどが渇いていたことに気が付き、麦茶を飲もうと思った。
自分のデスクからマグカップを持って来て、
そこに冷蔵庫の麦茶を半分くらい注いだ。
珍しい麦茶だ。
とろみがある気がする。

杏子はそれを一気にぐいっと口に流しいれた。

まだ麦茶が杏子の喉の奥を通過している最中、
杏子は激しい吐き気を催した。
口元を押さえてトイレに激走した。
吐くかと思ったが、無念、何も出なかった。
それでも気持ち悪さが収まらない。
トイレで収まるまで10分ほど過ごした。
その間杏子はじっくり考えた。
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あいつしかいない!
沙羅ちゃん 何を入れたの?
あれは麦茶じゃない!
まさか毎日作ってない?

吐き気がなんとか収まった頃、杏子はオフィスに戻り、
すぐに沙羅ちゃんをスタッフルームに呼び出した。
冷蔵庫を開けて、麦茶の入った容器を指指し尋ねた。

「ねぇ 沙羅ちゃん、これ飲んで見て。」

「どうしたんですか?
麦茶がアイスコーヒーにでも化学変化してました?
ありえなーい! ははっ!」

沙羅ちゃんは笑いながら、カップに注いだ麦茶を
一口ごくりと飲んだ瞬間、杏子にとってはデジャヴのように
口元を押さえて猛ダッシュして出て行った。

それから少し時間が流れ、お互いちょっと落ち着いた頃
杏子は沙羅ちゃんを事情聴取した。

「ねぇ これって腐ってるよね?」

「すみません!」

まずは謝られた。

「毎日作ってるよね?」

「すみません!!」

また謝られた。

容疑者はしどろもどろに自白した。

以下、自白の内容。

いつも金曜日の夜は作って帰らないのに、
先週末ふと3日くらいだったら大丈夫だと思って
麦茶を作って帰った。
月曜日に念のため味見したら、
普通の麦茶だったのでそのままにした。
火曜日、水曜日珍しく残業があって、
さらには友達と食事の約束があったので、
麦茶を新しく作らずそのまま帰った。
木曜、すなわち今日、朝すっかりそのことを
忘れていた。

そして麦茶は熟成された。
よく言えば熟成。
悪くいえば腐敗。

運悪く、週明けから肌寒い日が続いていた。
誰も麦茶を飲まなかった。
それでも中身を捨てて新しく作るように言ってあったのに…

一瞬は天使に見えた沙羅ちゃん。
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いつもよく言えば無邪気で素直。
悪く言えば、無頓着で大ばか者。
さわやかにこんなことをやらかすなんて!
この極悪人!

食あたりに効果抜群のシーロ丸という市販薬を飲んで
気持ち悪さはすっかり収まった。
怒りは収まらなかった。
そのまま、その日は自宅に帰った杏子。
寝るとき、布団に入って思い出した。

あーーーーー
え、え、江元しゃん!

あの人、あれをまるっと飲んで行った。

大丈夫かっ!

特に根拠はないが、杏子は頭まですっぽり布団をかぶり
なんだか悪い夢を見そうな気がした。