どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ62 グレる暇もありゃしない

タンさんの後頭部を恨めしく見送った後、杏子はしばらく無になった。
なぜ後頭部を睨んでいたのかは、杏子自身よく分かっていなかった。
とにかく仕事はやらなければいけない。
気をとり直して、必死に入力する杏子。
明日、腕の変なところに筋肉痛が出るかもしれないと思った。
一息ついた時、時計を見ると午後8時になっていた。
午後8時には終わるという淡い期待は、跡形もなく崩れていた。
何とか39枚まで進んだ。
そしていよいよラストスパート。
せめて、午後10時には終わらせたいと強く思った。
折れそうな気持ちを何とか振るい立たせ、最後の力を振り絞る杏子。
実際、折れそうというよりは、折れてはくっつけ直したという方が
正しいかもしれないと思った。
そんな自分を向こうから申し訳なさそうに見つめる名取さんが杏子の視界に
するりと入って来た。
「あぁー、名取さーん!もうちょっとです!気にかけてくださってありがとうございます!」
と努めて明るく声をかけてみた。
名取さんが真っ白い顔して返事をした。
「中野さん…」
わざとらしいため息をついた後、
「実は今妻がぎっくり腰で寝込んでて、あまり遅くまでここに居られないんです。
家も遠いし。こんな時に本当に申し訳ないんですが…」
そんなことを名取さんは言った。
杏子はまた固まった。
もう最後まで言うな!
言い訳されるほど腹が立ちそうだ。
おまえもか!
次々に裏切られる杏子。
それはまるで、二時間ドラマで絶対犯人だと思っていた被害者の婚約者が殺されてしまったシチュエーションに似ていた。
杏子はもう投げやりな気分だった。
「それは大変ですね。もう私は大丈夫ですから、早く帰ってあげてください。」
杏子の笑顔は完全に歌舞伎役者のように派手に作った顔だった。
「ごめんね。」
と言いながら、ひきつった表情の名取さんはそそくさと帰って行った。

そして、杏子はオフィスに一人だけとなった。

怖いのでまず内側から鍵をかけた。

そもそもなんでこんな状況になったのだろうか?
タンさんが月曜日にあらかじめこのことを予告しておいてくれれば…
今朝いきなり今日中と言われても…
しばらく、卑屈な考えで頭がいっぱいになり、手が止まっていた。
何とか終わらないと。
気持ちを立て直して、後10枚。
9時を過ぎた頃には、あと4枚まで来た。
その4枚がびっしり入力の書類で杏子は本日最後の凹み。
何とか1枚仕上げるともう9時半。
ああ、今日のうちには会社を出たい。
もう涙が出そう。
電話が鳴った。
番号を見るとタンさんの携帯だった。
出ると、
「ナカノサン、どう?」
と聞いてくる。
「あと、最後の3枚ですが、入力量が多いので11時くらいまでかかりそうです。」
「そうか、何とか頑張ってね。」
そう言って電話を切った。
タンさんの背後には、楽しそうな酔っぱらいの聞こえていた。
杏子は心底「ぐれてやる!」と思った。

こんな電話ならいらない!
二度と電話してくるな!
心で叫んだつもりが、声に出ていたようだ。
別に、一人きりだから、声に出たところで誰も聞いてやしない。
どうしようもなく悲しくなった。
でも、あとちょっとだ。
黙々と、でも確実に仕上げていった。
また電話がなった。
再びタンさんだ。
出るのを辞めようかと思いつつも、杏子は
何とか電話に出た。
「あ、ナカノサン?さっき言い忘れた、今日はタクシーで帰っていいから。領収書だけもらっておいてくれ。じゃあ。」
背後には相変わらずの宴もたけなわな感じのざわつきが聞こえていた。
腹は立ったが、タクシーはありがたいと思った。
杏子が50枚仕上げたのは10時30分の少し前だった。
もう見返す気力なんてあるはずがない。
どうせ、タンさんが明日チェックするのだ。
もういい。
何故だか分からないが、むなしい気持ちで、心の中がスースーしていた。
黙々と帰り支度。
戸締りを確認して、ビルの通用門から外に出た。
気分は非行に走る女子高生。
見た目は、そのまんま疲れはてた美人OL。
こういう時には、誰にでも美人を付けていいことになっている。
女子高生だったのは遠い昔。
みんな私を見捨てていくのね。
タクシーに乗り、自宅までずっと窓の外を眺めていた。

グレる気力も時間も無い。
眠い。
化粧はちゃんと落として寝ないと!

こうして杏子の悲惨な木曜日は終わって行くのだった。