どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ61 杏子の「私がグレそうになった瞬間」

タンさんが静か過ぎて不気味だった。
週が明けて、月曜日から水曜日までの丸3日間、何かに没頭している。
毎日、杏子が持って行く書類も簡単に目を通してはいるようだったが、
すべて後回しにされた。
幸いにも、緊急を要するようなものは何一つ無かった。
結果、タンさんとの会話も最小限。
ただ、いくつか杏子がどうしようかと相談した件があったことにはあった。
タンさんは、
「任せるから。」
とそっけなく答えて終わりだった。
しかも、どう考えても、上の空な様子。
タンさんはただひたすらにパソコンをのぞき込んでは、使用済みコピー紙の裏面を利用し、せっせと何かを書きこんでいた。
それは、何かの費用についてのように見えた。

とにかく杏子は暇でしょうがなかった。
秘書の放し飼い状態となっていたわけだ。
仕方がないので、ファイルの整理やあちこちの掃除をする始末。
タンさんはランチですら、午後1時過ぎに、フラッと出て行き、30分以内には戻って来た。
たぶん、うどん、ラーメン、天丼のどれかを食べて戻ってきたのだと杏子は思った。
戻って来れば、また支社長室に引きこもって何やら書き始める。
杏子は一度だけ、
「何かお手伝いすることはないですか?」
とタンさんに尋ねた。
「今はない」
がタンさんからの返事だった。

後々考えてみれば、その「今は」が非常に意味のある言葉だった。
木曜日の朝、それが分かった。
「ナカノサン!」
タンさんは出社するなり、杏子に声をかけた。
杏子は張り切った。
心の中で、
「ハイハーイ!」
と社会人なら職場で絶対やってはいけない返事をしていた。
もちろん、口に出してはいなかったが。
支店長室の入り口から中をのぞき込む杏子に向かって、タンさんは、
「ナトリサンを呼んで一緒に僕の部屋に来てくれるかな?」
と杏子に言った。
すぐさま名取さんを内線で呼び、タンさんのデスクの前に二人並んで椅子に腰かけた。

「ナトリサン、出来てるかな?」
タンさんの第一声はそれだった。
杏子の軽いアウェイ感。
すると名取さんは、
「はい!この通りです。」
と書類の束をタンさんに差し出した。
名取さんのどさっと差し出した書類は、最初のページから金額や計算式がたくさん並んでいた。
「ナカノサン、来年の予算案を本社に提出しなければいけない時期になった。心配しなくていいからもう準備はすべて出来てる。君はこれをフォームに入力すればいいだけだから。」
タンさんは杏子に向かってそう言った。
「フォームはメールで転送するから。ここに名取さんが準備している各項目の内訳がある。その計算式もちゃんと書いてある。僕のドラフトはこれ。君のために分かりやすく手書きで準備したから。君は僕のドラフトで丸で囲った部分に名取さんがくれた数字や計算式を入れるだけだよ。簡単だろ?」
杏子の理解が追い付かない。
しかも、目の前には大量の書類だ。
どうしても簡単とは思えない。
杏子は黙っていた。
戸惑いが杏子の表情に出ていたかもしれない。
それを察知したタンさんは、
「簡単ってこともないか。量が多いし。まあ、今日はこれに集中して、他は何もしなくていいから。」
そう言われて、杏子はやっと、
「分かりましたなんとか頑張ります。」
と返事することができた。
「明日の午前中いっぱいが締切だから、明日の朝に僕が最終チェックできるようにしてくれ。」
タンさんの言葉に杏子は憎しみすら感じた。
杏子の目はこれ以上丸くならないほど見開かれた。
目で訴えた。
「今日言われて今日中にやれと言うのか!何が他は何もしなくていいだ!そんなことは月曜日に一言言ってくれてもよかったじゃないか!こん畜生!」
思わずタンさんが、目をそらした。
杏子が発した怒りのオーラはタンさんと名取さんの二人を黙らせた。
それでも、名取さんはこの場を何とか収めないといけないと思ったようだった。
「中野さん、何か分からないことがあったらいつでも声をかけてね。」

そんなこと言われても…
分かるわからないの問題ではなく労力の問題ですよ。
杏子は投げやりな気分ながらも、
「ありがとうございます。心強いです。」
と返事だけはしておいた。

支社長室から解放された杏子は、自分のデスクに戻った。
やるしかないのだ。
始めないと終わらない。
とりあえず、枚数を数えてみた。
タンさんのドラフトはちょうど50ページあった。
と言うことは、同じような形式で準備した名取さんの書類も50ページだな、きっと。
その時、午前11時ちょっと前。
さぁ、やるぞ!
両肩を軽く回してほぐして、ついでに両手をプラプラして手首もほぐして取り掛かり始めた杏子。

最初の1時間で出来たのは5ページだった。

このペースで行けば夜10時までかかるかもしれない。
でも、ページによっては、ほとんどブランクというのもある。
ぎっしり記入されているのは最初のほうに集中しているようだ。
そんなに遅くはならないかも…

それで安心して、かおりさんとランチに行ってしまった。
1時過ぎに席に戻り、杏子は作業に戻った。
やっぱり、1時間で5枚ほどしかできない。
タンさんは杏子に気を使って何も話しかけないようにしていた。
たまに、遠慮がちに、
「どう?進んでる?」
とか通りすがりに聞いてくる。
杏子は嬉しかった。
タンさんは杏子が入力を終えるまで見守ってくれるはず。
一心不乱にキーボートをたたき続けた。
気が付くともう夕方6時を過ぎていた。
カウンターの3人が次々に杏子に声をかけて帰って行った。
それまでに28ページ終わっていた。
大変な部分はだいたい終わった。
ここから先は、ちょっと楽になりそうだ。
明るい未来が見え始めたちょうどその時、
ふと気が付くとタンさんが杏子のデスクの脇に立っていた。
見ると明らかに帰り支度。
杏子は唖然とした。
杏子の鋭い視線から逃げまくるタンさんの2つの目。
タンさんは杏子にこう言った。
「今日は、代理店との食事の約束があるんだよ。それで…」
裏切られた。
杏子がそう思ったとしても誰も責められない。
タンさんは、不明瞭な発音でボソボソと、
「田中と水沢がどうしても一緒に来てほしいと言ってきかないんだよ。相手は社長が来てくれるそうなんだ。途中で電話入れるから。」
本気で申し訳ないと思っているのだろう。
そして、杏子に背中を向けて去って行ったタンさん。

まさかの本日の心の支えの戦線離脱。
裏切られた。

杏子は健全な家庭で育った。
グレたことも、グレようと思ったこともなかった。
でもこの瞬間、一回グレてみようか…
そんな考えが杏子の脳裏をよぎった。

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