どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ60 恐るべき上昇志向の女

タンさんの秘書歴もはや1年。
ボスの傾向と対策が身に染みついた感がある杏子。
タンさんは、時々呟く。
物を書きながらだったり、パソコンをのぞき込みながらだったりする。
もちろん、一人の時ではない。
杏子がデスクのそばを通りかかった時に限って、わざとらしく聞こえるように、興味を引くように呟くのだ。
杏子がうまい具合に足を止めて聞き返せば、そこでやっと本題に入るという訳だ。
それはいつも仕事の本筋から外れたことについてだった。
まれに杏子が忙し過ぎて聞く暇がない時には、聞こえないふりをして無視したりもする。
そんな時、タンさんは引き留めてまで聞かせようとはしない。
それはタンさんの思いやりと杏子は受け止めていた。

タンさんは日々の忙しさの中で、香奈ちゃんのアルバイト疑惑なんて忘れてしまったのだろうか?
杏子はこの1週間ずっと気になってしょうがなかった。
ただ、タンさんが何も言わない以上、杏子から聞くわけにもいかなかった。
かと言って、タンさん以外の人とこの話題を分かち合うことなんかできるはずもなかった。
日本ホテルという日本で一番と言われるホテルのレストランで、ウエイトレスのアルバイトする理由は何なのか。
正直、杏子はどうしてもその理由が知りたかった。
香奈ちゃんを見かけるたびに、自分で探ろうかと何度考えたことか。
ただ、残念なことに、真正面からの質問以外のいい方法は何ら浮かばなかった。
なので、実行には移していなかった。

杏子はいつものように午前中空港オフィスから社内便で届いた書類をとりまとめて、タンさんの書類受けに入れて退室しようとした。
その時、タンさんが、ボソッと呟いた。
「あれ、本当にシミズさんだった。」
それを聞いた瞬間、杏子は、恐ろしく切れのいいターンで回れ右、タンさんの方に向きを変え、すっとデスクに歩み寄った。
「捕まえたんですか?」
杏子の質問のし方が悪かった。
まるで、香奈ちゃんを犯人扱い。
でも、タンさんにはそれで通じたようだ。
「いや、自分から投降してきた。」
タンさんも香奈ちゃんを犯人扱い。
珍しくタンさんと杏子の波長がぴったり合った。
「昨日の夜、ワンチャイと一緒にあのレストランに行ったんだ。いたよ。今度は最初から注意して見てたから、すぐに間違いないと思った。向こうも、気が付いてたね。お盆で顔隠すみたいにして近くを通ったり、なるべく見つからないようにしてた。どうしようかと考えた結果、とりあえず昨日はそのまま帰って、今日本人を呼んで話することにしようと思った。それが、食事を終えてレストランの外に出たところで、彼女が『タンさーん、ごめんなさい』とか言って追いかけて来たんだよ。びっくりしたね。まぁ、それなら、その場で話した方が早いかと思ってね。ワンチャイには謝って先に帰ってもらって、本人に事情を聞いたんだよ。」
「なんて言ったんですか?」
杏子は話をグイグイ先に進めようとした。
「お母さんが病気で治療費がかかるからとか言ってた。見え透いたことを… 両親は元気なはずだろう?そんな重病だったら、あちこちの男性スタッフと一緒に飲み歩いてる場合じゃないだろう?ましてや、ちょっと前に休暇取って香港に行って来たとか言って、お土産配ってたじゃないか。もうちょっとましな嘘が言えないのかね。何にそんなにお金が必要なんだろうか?とにかく、理由はどうあれ、アルバイトしてたのは事実だからね。最近始めたばかりだとは言ってたけどね。ウチの会社はアルバイト禁止だからね。処分は慎重に検討して、後で知らせるか、もしくは、自分から辞めていいとも言ったんだよ。」
「お母さん絶対元気ですよ。だって、彼女毎日お母さんの手作り弁当持って来てます。やっぱりクビですか?」
「泣くんだよ。クビにはしないでくださいって。アルバイトはすぐ辞めますからって。だったら最初からそんなことしなきゃいいのに。」
タンさんの話を聞きながら、杏子は一瞬考えた。
香奈ちゃんがクビになったら、さぞかしかおりさんが喜ぶことだろう。
いつも一触即発みたいな状況で仕事してるから。
でも、香奈ちゃんは絶対に会社に恨みを持ちそうだ。
いくらアルバイトした香奈ちゃんが悪いとしてもだ。
ちょっと間を置いてタンさんが言った。
「いや、今回のことは厳重注意で済ませることにした。僕の責任でね。人の恨みを買うのは怖いよ。彼女は今回の件で死ぬほど懲りたはずだし。今度やったら逃げられないのが分かってるしね。」
「そういうことですか…」
誰でも人の恨みを買うのは嫌なものだ。

これはいわゆる玉虫色の決着というのだろうか?
でも、それ以上追及のしようがないのも事実だった。
香奈ちゃんがアルバイトした理由は結局のところ分からずじまい。
分かったことは、香奈ちゃんが泣きながらクビにしないでと懇願したこと。
死ぬほど反省して、すぐにアルバイトを辞めたということだった。

その後、トイレで香奈ちゃんにばったり遭遇した。
杏子が先に居たところに、後から香奈ちゃんが入って来たのだ。
鏡の前で、並ぶ二人。
香奈ちゃんが鏡越しに杏子を気にしているようにも思える。
何か話した方がいいだろうか。
杏子はちょっと焦った。

「タンさん忙しそうですか?」
香奈ちゃんが先に言った。
杏子はとっさに、
「うん。なんかすごく忙しそうで、あまり話する暇もない。」
と言ってしまった。
ひょっとしたら、杏子の返事はベストアンサーだったかもしれない。
きっと、香奈ちゃんは、杏子がタンさんから何か聞いていないかと気になっていただろう。
アルバイトの件や、泣いて懇願したことは知られたくないことだろう。
香奈ちゃんの表情が微妙に警戒レベルからちょっと緩んだ。
杏子はそれを見逃さなかった。
一緒にトイレからオフィスに戻った時、香奈ちゃんは
「杏子さん、そのうち飲みに行きましょうね!」
と言ってカウンターに戻って行った。

杏子はそれを誰にも話してはいけないことは十分すぎるくらいに分かっていた。
もし自分がもぐらだったらと考えた。
そしたら、今すぐ、広い野原のど真ん中で、深い穴を掘って、そこに叫ぶ。
「香奈ちゃんアルバイトしてたんだって。タンさんに見つかって、泣いてクビにしないでってお願いしたんだって。」
その後、急いで穴を埋める。

もちろん、杏子はもぐらではない。
もぐらになろうなんて気も杏子にはない。
さらには、杏子がもぐらになれるはずがない。

杏子は核心の見えないこの出来事を自分とタンさんだけが知っていることが苦しかった。

夜、自宅でベッドに入って寝ようとしたとき、天井から何かが舞い降りた。
そんな気がした。
杏子はひらめいたのだ。

もしかして、香奈ちゃん一流ホテルでイケメン探しでもしてた?

奴ならやりかねない。
なんせ、ステータスのある男前が大好きな女だ。

うん、あるかもしれない。

なんて貪欲な女なんだろう。

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