どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ56 - 場違いな言い間違いの連鎖 

忘れたいことは、忘れたいと思っている間は絶対に忘れることができない。
時間という薬は知らない間に効いているのだ。
努力して忘れるということはあり得ない。
そもそも、杏子が今の立場に至る発端は、「忘れる」ことだった。
社内恋愛に破れ、毎日顔を合わせることが堪えられないと思った杏子。
そして、約一年前縁あってソラリア航空に拾われたのだった。
杏子にとっては、拾われたという言葉がなぜかしっくりきた。
入社以来、タンさんに叱咤され、個性の強い面々に翻弄され、
これまで一生懸命やって来た。
結果として、袴田さんのことは、杏子の頭の中からすっかりきれいに消えていた。

6月ももう終わりに近い土曜日の朝、以前勤めていた旅行会社の後輩から、杏子に電話がかかってきた。
彼女とは、杏子が会社を辞めた直後くらいに一度食事したことはあったが、それ以来会っていなかった。
「杏子さん、急なんですが、私、来月結婚することになったんです。式はもうちょっと後で海外で、しかも身内だけなんですが、その前に入籍して、友人・知人を集めてパーティをすることになって。」
確か、彼女には学生時代からの彼氏がいたと記憶していた。
「おめでとう、梨乃ちゃん。お相手は、例の彼氏?」
「それが、あの彼とは、杏子さんが辞めた後ぐらいに、別れたんです。
やっぱり、環境が変わるとお互い時間作るのが難しくなって。疎遠になっちゃって。」
「そうなんだ。じゃあ、その後から?ずいぶん早く進展したんだね。」
「彼が海外転勤になっちゃって。ロンドンなんですけどね。で、結婚式自体は向こうに行って落ち着いてからということで。 なんか恥ずかしいなぁ。」
「へぇー、ロンドンに行くんだ。すごいね! で、どんな人?」
「杏子さんも知ってる人です。」
「へぇ、だれだれ?」
「袴田さんですよ。」
そこから後の会話を杏子は覚えていない。
たぶん、杏子の耳には入ってきていたはずだが、頭には入ってこなかった。
暗黒の世界に迷い込んだ感じだった。
杏子が覚えているのは、出席のOKしたことと、梨乃ちゃんの話に
適当に相槌を打ったこと、そして、電話を切ったことの3つだった。

電話を切ってから、ぼやけていたものがだんだんとはっきりして来た。
杏子は考えた。
どういう事なのか。
袴田さんは私を招待することに同意したのか?
だとしたら、どんな嫌がらせだ。
なんとしてでも、阻止するもんだろ!
その日はおろか、翌朝まで、杏子はどこにもぶつけようのない怒りで、
何もする気になれなかったどころか、眠りも浅いものだった。

そんな翌日曜日の午前、杏子の携帯が鳴った。
「あの。久しぶり…」
その声は、しばらく忘れ去っていたが、とても親しみのあるトーンの声だった。
「あ… どうも。」
それ以外、言葉がでない。
袴田さんからの電話だった。
「昨日、梨乃ちゃんから電話来た? よね…」
杏子は黙ったままだった。
何を言ったらいいかわからなかった。
「僕たちのこと、会社は誰も知らなかったじゃない? それをわざわざ梨乃ちゃんに言えなくてさ。君を招待するって言った時、招待はなるべく会社の上司と同期とあとは友達だけにして小さくまとめようって言ったんだけど、杏子さんは私にとって大事な先輩だからって聞かないんだよ。もう、どうしようもなくて。」
袴田さんは杏子に何を言えというのか。
「できれば、そっちから断ってくれない?」
そういうことか。
でも、もう遅い。
確かに、当日急用で欠席とか方法はあるけど、二人の門出に失礼だ。
しかも、梨乃ちゃんは入社当時から杏子が親身になって指導したかわいい後輩だ。
杏子が覚えている限りでも、彼女は杏子のことをとても慕ってくれていた。
杏子が会社を辞めると言った時には、涙すらしてくれた後輩だった。
梨乃ちゃんには、余計な気を使わせたくないと杏子は思った。
もしも、彼女が杏子と袴田さんのことを全く知らないとすると、
そのまま無かったことにするしかない。
怪しいと思っていた人はいたかもしれないが、それに対して杏子は全面的に否定していた。
何よりも、今は杏子の心はもはや袴田さんにはない。
それは確かだった。
本当はちゃんとうまく説得してほしかった。
軽く袴田さんを恨んでみた杏子だった。
重い会話がしばらく続いた後、
「お祝いごとだから、出席させていただきます。素知らぬ顔で普通に出ますから、ご心配なく。ご結婚とご栄転おめでとうございます。」
と杏子は極めて冷静に抑揚もなく言った。
「そうか…ありがとう。じゃあ、また」
そう言って袴田さんが電話を切った。
杏子にとっては、最悪の週末だった。

杏子は自分の心の中で整理が付かなくなって、たまらず、
美由紀ちゃんに電話した。
美由紀ちゃんは杏子の話を聞くなり、杏子以上に憤慨し、袴田さんの悪口を言った。
杏子に結婚パーティには出るなとすら言った。
そして、自分が袴田さんに電話するとまで言い出し、それはものすごい勢いだった。
さすがに、それは杏子が止めた。
出るなら、ばっちり決めて新郎を見返してやれとも言われた。
それだけ聞いて、やっと杏子の気持ちが落ち着いてきた。

袴田さんは8月上旬にはロンドンに赴任することになっているそうだ。
悪夢の電話から、さほどかからず、発起人一同の名前で可愛い招待状が杏子の元に届いた。
開封するのもおっくうな杏子だった。

当日、杏子は努めてシンプルでメークも極めて普通にした。
主役は花嫁だし、杏子はなるべく自分の存在を消したかった。
ただし、シンプルな衣装は実は、ポラダのものだった。
死ぬほど思い切って買ったのだ。
ほんの少しの抵抗だった。
美由紀ちゃんに言わせると、やけになっているんじゃないかということだった。
それも、外れではないと杏子は思った。
会場はレストランを貸し切り、受付にいたのは元同僚たちだった。
懐かしく会話を交わして、言われるがままに、名前と住所を書いたが、
手がなんか震えて、うまく書けなかった。
平静を装っても、手が正直に動揺を見せてしまった。
余計に焦った。
パーティは極めてアットホームに進んだ。
袴田さんはタキシードだった。
梨乃ちゃんは、可愛い白のワンピースで髪をアップにして、
白い生花を飾りにしていた。
とても清楚でかわいらしい花嫁さんだった。
あらかじめお願いされていた人たちのスピーチが
ひっきりなしに続いた。
杏子は一生懸命に笑顔を作り続けた。
そんな中、新郎側の誰かのスピーチだった。
「敏郎さん、梨乃さんおめでとうございます。」
「敏郎さんあなたは世界一の幸せ者です。今日の梨乃さんは、本当にもうこの世のものとは思えません。」
会場全体の空気が止まった。
そしてざわついた。
誰も笑っていない。
杏子は吹き出しそうになったが我慢した。
この手の言い間違いはよくあるものだ。
見逃してあげないと。
なのに、最後のほうで、今度は新婦のお父さんがやらかした。
酔っぱらっていたお父さんは、
いきなりマイクを奪って、泣きながら、
「敏郎君、ふしだらな娘ですが、どうかよろしくお願いします。」
今度は失笑が漏れた。
もちろん杏子もちょっとだけ吹いた。
ふつつかな娘と言いたかったのだろう。
とんだお笑い結婚披露パーティとなってしまった。
とどめは、司会者を担当した若い男性だった。
「では、新郎新婦のご冥福をお祈りして、しめくくりたいと思います。」
ここまでくると、お笑いが仕込まれていたのではないかと思ってしまう。
ヤジが飛んだ。
「おまえ、酔っ払ってんのかー。なんてこと言うんだ。」
一気に大爆笑に包まれた。
もう、杏子も遠慮なく笑った。
そして、心の底から笑ってる自分に気が付いた。
そうだ、もう終わったことなんだ。
私の人生と交わることがなかった人なんだ。
もう、いいじゃないか。
すべてが終わり、杏子は会場の出口で出席者一人一人にお土産を渡す新郎新婦に挨拶して、2次会は丁重にお断りして、家に帰った。

笑は世界を救うのだった。
こうして杏子の心は晴れた。

思わず聞きいる 主賓のスピーチ (話し方・マナー・演出のコツがわかるシリーズ)

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