どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ55 - とても口に出せない言葉

航空会社同志は競争相手であると同時に、業界のトレンドなどさまざまな情報を共有・交換する相手でもある。
とりわけ、東南アジア系航空会社間の競争は熾烈を極めるが、それでも密接な横のつながりがあることは世間一般では意外なことかもしれない。
事実、営業部門や予約発券部門担当者など、それぞれに定期的に集まって情報交換したりするのだ。
支社長同志もまたしかりで、タンさんも月例の支社長の集まりには嬉しそうに出かけ行く。
杏子が知っている限り、タンさんが一番仲良くしているのは、タイワールドエアのワンチャイ支社長だ。
週に何度もお互いに電話しあっているのを杏子は知っている。
杏子自身、タンさんから言われてワンチャイさんに電話することもたまにあった。
それは、杏子が初めてワンチャイさんのオフィスに電話した時のことだった。
電話に出たのは、ワンチャイさんの秘書だった。
タンさんからワンチャイさんへの電話だと相手に杏子が伝えると、
彼女はすんなりワンチャイさんに繋いでくれたので、杏子もタンさんにすぐに電話を回した。
タンさんが電話を終えたのち、しばらくして、杏子の電話が鳴った。
ワンチャイさんの秘書だった。
「ハロー ナカノサン! アイム パンティ ワンチャイサンズ セクレタリー」
杏子一瞬絶句したが、気を取り直して、
「オー ハイ グッド トゥー トーク トゥ ユー アゲイン… アー」
と返した。
それでも、その間も、
え、今なんて言った?
聞き間違い?
名前 パンティっていうの?
どんなスペル?
杏子の全神経はそこにあった。
そして、しばし沈黙。
すると彼女は急に日本語で、
「私、日本語も話します。旦那さん日本人です。ワンチャイさんからの依頼であなたに資料を送るように言われたので、さっきメールに添付して送りました。届いてますか?確認したかったです。」
杏子の混乱は頂点に達した。
「えっと。ハイ。ちゃんと届いてます。PDFの添付がありますね。ちょっと開いてみますね。ハイ。大丈夫です。昨年の国土交通省の統計ですね。ありがとうございます。」
「ナカノサン。ありがとう。これからも仲良くしましょうね。よろしくね。では、また。」
「こちらこそよろしくお願いします。では、失礼します。」
電話を切ってもまだ思い悩む杏子。
これから、彼女を名前で呼ばないといけないの?
なんとかして、短くすることはできないかしら?
パンちゃんとか。
猿じゃあるまいし。
無駄な考えを続けて、悪あがきする杏子だった。

時に海外では、日本人が口に出して言うことをためらう地名や名前がある。
確か、旅行代理店にいた時にもそんなことがあった。
バリ島に旅行に行くお客様から電話を取った時だった。
2日目の観光はどこに行くのか、夜の食事はどこかと言った問い合わせ内容だった。
杏子は、旅程表を探し出して説明した。
ところが、途中でぎょっとして止まってしまった箇所があった。
それはキンタマーニと言う高原の名前だった。
杏子は少しためらったが、そこで無言になるわけにもいかず、極力さらりと発音して
何とか困難を乗り越えた。
旅行代理店にいながら、バリ島にそんな観光地があることを初めて知った瞬間だった。
それ以降、バリ島についての問い合わせの電話があるたび、杏子は暗い気持ちになったものだった。

あれ以来の衝撃だ。

自分の聞き間違いということもあるかと、杏子は念のため、かおりさんにメールで聞いてみた。
「タイワールドエアの秘書の人、パンティっていう名前なの?どんなスペルか知ってる?」
かおりさんはすぐに調べて返事をくれた。
「杏ちゃん、パンティじゃないよ!パンチットって名前だよ。パンティって聞こえそうだけどね。そんな名前はあり得ないよ!」
かおりさんの返事を見て、杏子は急に一人で恥ずかしくなった。
そうか、パンチットか…
なんでパンティって聞こえちゃったんだろう?

杏子はたまに変な聞き間違いをする。
一度、タンさんが書類を持ってきて、
「キャン ユー プリーズ フォトコピー イット」と
言われ、ご丁寧に8部もコピーを作って、それはそれは怒られたものだ。
イットとエイトと聞き間違えたのだ。
後で考えれば、そんなこと間違えようがないのだが、杏子にはその手の失敗が数回あった。
タンさんの指示の聞き間違い。
それが、杏子の弱点の一つだった。
良かった!
タンさんに聞かなくて。

後日、かおりさんとランチに行った時、その話がぶり返した。
かおりさんは
「確かにそう聞こえても不思議はないよ。アジアの人の発音って微妙だからね。」
と慰めてくれたが、目が思い切り笑っていたのを杏子は見逃さなかった。
「確かに、口に出して言えないね。もしその名前だったら。」
そう言いながら、かおりさんは何か思い出したようで、
「そういえば、すごい笑えること思い出しちゃった。この前さ、沙羅ちゃんのおかげでカウンターで大爆笑だったんだよ。」
と話し始めた。
「一回、香奈ちゃんだけがものすごく忙しくてパニックになったことがあったの。沙羅ちゃん、なんだか張り切って、香奈ちゃんの手伝を志願したんだけど、途中で自分が担当の別のお客さんが来ちゃって、対応してたら、香奈ちゃんの手伝いをすっかり忘れちゃってね。結局、香奈ちゃんが自分で慌ててやる羽目になったんだけどね。その後、香奈ちゃん怒っちゃって。沙羅ちゃんに対して、出来ないなら最初から引き受けないでとか、なんですっかり忘れてるのとか、それはすごくて手が付けられない状態になって。沙羅ちゃんすっかり黙り込んじゃった。普通なら、言うだけ言ったらもういいじゃない?でも、さすが香奈ちゃん。他人の落ち度は許さない女なわけよ。その後もずっと、なんで?ってしつこく問い詰めるわけよ。単純に忘れてたからだろうし、理由もなにもねぇ。」
「それでね、やっと沙羅ちゃんの口から出た言葉がね。」
かおりさん急に吹き出した。
「それはとても口に出して言えません!だって。」
「私、知らん顔してたんだけど、その瞬間ブッって吹いちゃって。そしたら、香奈ちゃんも我慢できずに吹いちゃって。その後はお話にならなくて。それでその話はじエンドだったの。」
「しかしねぇ。口に出して言えませんなんて来るとは。そこが沙羅ちゃんのおもしろいところだよねー。笑いの神が降りて来たとしか思えないよ。もうー。」
杏子はなぜだか笑えなかった。
それでも、礼儀として笑うふりだけは見せた。

杏子は思った。
全然いいじゃない。
だって、それは絶対にパンティの類ではないもん。
人の名前をそう聞き間違えた自分が、以前にも増して恥ずかしくなってきた。
そして、よせばいいのに、自分でパンチットとつぶやいてみて、
どう考えても、パンチットにしか聞こえないことを確認して、さらに落ち込む杏子だった。

かおりさん、お願いだからこのパンティの話、ほかの誰にも言わないで下さい。
そのためだったら、このランチおごります。
そう考えながら、財布の中にいくらあるか、こっそり確認した杏子だった。

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