どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ46 - 仇を恩で返す事は有りか否か

「玉無し」と言う言葉はもともと田中さんが思わず口走った言葉だった。
旅行代理店の支店長でやたらネチネチと田中さんに文句を言う人がいたそうで、
営業から帰って来た田中さんが水沢さんに大きな声で、
「あいつ男じゃないよ。まったく!玉無しだな。くそっ!」
と騒いでいたのを耳にしていたのだ。
無意識のうちにそれを五島さんに当てはめていた杏子だった。

人の意地の張り合いはずっと平行線だ。
決して交わることはない。
どちらか一方でも進行方向を相手側に傾けないといけない。
それはたったの1度でもいいのだ。
そうすればいずれ2本の線は近づいてくる。

五島さんはかつてないほど意地になっていた。
少なくとも杏子はそう思っていた。
だが、同時に、そして哀れなことに、五島さんは破滅寸前だった。
彼は、もうどうしていいのか分からなくなってパニック寸前の様子だった。
カウンターの3人ですら、五島さんの近頃の応対に文句を言う始末だった。
もう自滅寸前とも思える五島さんの様子を見て杏子は決して「ざまぁ見ろ!」とは
思えなかった。
人は心底冷酷にはなれないと杏子は悟った。
ただ、五島さんから頼まれもしないのに手を差し伸べることは出来なかった。
きっと余計なことをしてとさらに恨まれかねないからだった。
タンさんは彼に名取さん入社までに準備することをいろいろ指示していた。
しかし、それが少しも進んでいないことで五島さんは責められていた。
無理もない事だ。
彼はその場しのぎのやっつけ仕事ばかりしていて、記録と言うものを全く取っていなかったのだ。
きっと、記憶で何とか出来ると考えたいたのだろう。
五島さんがタンさんに何度となく怒られる様子を、杏子はなるべく見ないようにしていた。
なぜなら、かなり痛々しい光景だったからだ。
杏子は頼まれればいつでも手伝う準備は出来ていた。
同時に、五島さんが杏子には意地でも頼まないだろうという事も分かっていた。
タンさんは田中さんにまで五島さんの事を愚痴ったようだ。
田中さんはすぐさま五島さんをランチに誘った。
戻って来た時も五島さんにあまり変化は感じられなかった。
後から杏子が聞いた話では、田中さんはたった一言、
「やる気が無いんなら辞めてもいいぞ!他にうちに入りたい人は山ほどいるからな。」
と言ったそうだ。
少しでも気骨のある男なら、何くそと思って奮起するところだが、五島さんはどうだろう?
それから1週間ほど、五島さんは毎日夜遅くまで残っていたようだ。
その後、タンさんのもとに業務のマニュアルのようなものを直接提出していたのを見た。
杏子はなるべく気にしないようにと務めた。
だが、ひとしきり五島さんとそのマニュアルを吟味し、協議した結果、タンさんは杏子を呼んだ。
杏子は慎重に支社長室へ入って行った。
タンさんは開口一番、
「このゴシマの作った業務マニュアルだけど、僕の見た限りでは不完全だから、君が
出来る範囲でいいから補足を加えてくれるかな?2日くらいあれば何とかなるかな?」
と杏子に遠慮がちに尋ねた。
そのタンさんの向かいに座っていた五島さんは下を向いたままだった。
杏子は、その書類を全く見ずに、
「分かりました。やれるところまでやってみます。そのマニュアルのワード文書を
私にいただけますか?」
と答えて、五島さんに顔を向けた。
彼はしぶしぶ、
「イエス」
と答えざるを得なかった。
杏子はその返事を聞いて、
「サンキュー」
と言って支社長室から失礼した。
タンさんはもう怒る気にもなれない様子だった。
杏子にはよく分かる。
それでもなるべく五島さんを傷つけることなく、杏子に手伝わせると言う体でやらせようということなのだろう。
まさしく大人の対応だった。
しばらくして、自分も席に戻った五島さんは、メールでマニュアルのワード文書を送って来た。
早速、杏子はそれを開いて見た。
言葉にもならないお粗末さだった。
たとえば、日々の経理のワークフローについては、
1. 朝、前日の売り上げを銀行で入金。
2. ぺティキャッシュは金種をそろえる。
3. 運営資金は、足りなくなったら本社に申請する。
4. その日の売り上げは、カウンタースタッフと確認する。
ただの仕事内容の羅列だった。
ちっともワークフローになってないじゃないか!
まずは大きくマンスリーで流れを作り、その中から、ウィークリー、そしてデイリーとまとめれば楽なのに…
ぺティキャッシュにしても金種をそろえるってなんじゃこれ?
1円玉は何枚、5円が何枚とか決めてもいないのか?
運営資金も足りなくなったらって、一体何を言っているのか?
杏子はなんだか五島さんが可哀想になって来た。
彼はこの仕事に向いていない。
杏子は確信した。
総務や経理は本当に細かく物事を計画実行出来ないと無理だ。
一流大学を出て、証券会社に入ったという背景だけで採用し大失敗したいい例だろう。
それでも採用した以上、余程の理由が無いと解雇なんて出来ない。
この社会は本当に難しい。
杏子は気を取り直して、五島さんの作ったマニュアルを無視して、一から作った。
文句は言わせないと思っていた。
杏子は与えられた2日間でちゃんと総務経理業務マニュアルを作り変えて、タンさんに提出した。
タンさんはそれに目を通して、
「グッドジョブ!」
と杏子に言った。
そして、五島さんを呼ぶようにと言った。
杏子は内線で五島さんを呼んだ。
タンさんは五島さんと二人でしばらく話をしていた。
30分くらいだっただろうか?
五島さんが出てきた。
杏子はわざと素知らぬふりをした。
五島さんもすっと通り過ぎて行った。
そういうやつなのだと杏子は思うことにした。
別に感謝されようとしてやったことではなかったのだからと杏子は自分に言い聞かせた。

恩を仇で返すと言う言葉がある。
腹立たしい事だ。
杏子は、仇を恩で返したつもりだった。
それはそれで悲しくむなしい事だった。
ただ、少なくとも杏子の良心は救われた。
それでいいじゃないか!
そう考えようとしても、その晩家に帰って杏子はなかなか寝付くことが出来なかった。
すっきりした気分ではなかったのだ。

だが、翌朝会社に来て杏子は少しだけ救われた。
五島さんからメールが届いていた。
発信した時間はなんと前夜10時だった。
そこにはこうあった。
「中野さん、業務マニュアルをきれいに作ってくれてありがとうございます。
これから、それを使わせていただきます。あと、この前とても失礼な事を言ってしまって
本当にごめんなさい。以後そんなことは絶対しません。それだけ言いたかったので、こんな時間にメールしました。」

仇を恩で返したら、そのあと、誠意が戻って来た。

7つの要素で整理する業務プロセス (for Mutual Interest SERIES)

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