どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ45 - 理不尽でひんやりした関係

杏子はテナント会議でのカタカナ噛み噛み事件を田中さんに話してあげた。
田中さんは大爆笑だった。
「そんなもんなんだよね。人生ってさ。ものすごく頑張って準備して行っても思わぬところで足元すくわれるんだよ。そうかー、カタカナが読めなかったか。傑作だねぇ。杏子さんおもしろすぎるよ。」
田中さんに笑われて逆に杏子は気が楽になった。
田中さんが杏子の心にあった何か重たいものを笑いで吹き飛ばしてくれたのだ。
ただ、しばらくカタカナは杏子のトラウマとなることは間違いなかった。
田中さんは、ひとしきり笑った後、息を落ちつけてから続けた。
「でもね。杏子さん。その逆ってのも意外にあるよ。全然準備してないのに、訳も分からずすらすら行く時がね。杏子さんもちょっと肩の力抜いてもいいのかもね。俺からみてると
力が入り過ぎて頑張りすぎてる風に見える時あるよ。」
そう言われて杏子は考えた。
わたしってそんなに頑張ってるように見えるのかな?

その日タンさんは大使館の人たちと親睦ゴルフで終日外出だった。
あのダブルブッキングになりかけたゴルフの約束だ。
相手が大使だったので、断るのは結構大変だったらしい。
緊急事態を理由に何とか日程を変更してもらったそうだ。
タンさんは大好きなゴルフでも、相手が大使となると息抜きにはならないかもしれない。
気を使うことばかりなのではないかと杏子は思った。
タンさんが粗相をしないようにとだけ願ってみた。
何かあれば、それは杏子にも影響が来そうだったからだ。

タンさんがオフィスにいないと分かると杏子を邪魔しに来る面々がいる。
その不動の筆頭は進藤さんだ。
杏子には進藤さんセンサーでも付いているのか、来ると予感すると本当に来る。
大体、ヤクルト2本、ジュース2本、缶コーヒー2本のいずれかを携えている。
一本を杏子に渡しながら、さりげなく杏子のデスクの前の椅子に腰かける。
いつもならば、進藤さんは杏子から探りたい事、もしくは杏子に頼みたい事がある。
対する杏子は進藤さんをいかに短時間で追い払うかが課題だった。
どちらも、負けられない攻防だ。
「新しい総務経理課長 名取さんて言う名前なんだよね。真面目が服着て歩いてるって田中さんが言ってたよ。五島君も今まで野放しだったからねぇ。びしばしやってほしいよね。」
「そうですね。ほんとにもっときっちりやってほしいなと思ってたからちょうどいいですよ。」
そう来たか!
と杏子は思った。
「五島くんってさー、かなりか変わりもんだよな。時々、目が怖い時とかもあるしさ。恐ろしくなる時があるんだよね。この前杏子ちゃんに内線電話でひどいこと言っただろ? 俺さ、あのとき、彼のデスクの横にいたんだよ。誰が相手だろうって思ったよ。だって言い方が その辺のチンピラじゃない。怖くなったよ。でさ、俺 聞いたんだよ。今誰にそんなこと言ったの?って。そしたら杏子ちゃんじゃない。最低だよな?あいつ。もうちょっと誰かちゃんと教育しないとダメなんだなぁ。」
杏子は思いもしない進藤さんの発言に、思わず聞き返した。
「あれ聞いてたんですか?」
「そうですか。あの時あそこにいたんですか。私呆然としてましたよ。なんで、会社の人間にあんな脅しめいたことを言われるのか分からなくて。しかもいつも暇そうで、たまにやることがあると忙しいとかピリピリしちゃって。他の本当に忙しい人に失礼ですよ。でも名取さんがきっちりしたひとみたいなので、あの変人を教育し直してくれると強く願ってます。」
まさかの進藤さんにこのタイミングで慰められるとは思いもしなかった杏子だったが、ちょっとありがたかった。
進藤さんもまた杏子の心のわだかまっていた部分を解きほぐしてくれたのだ。
こうやって、人はお世話した人にたまにお返しをもらうのだろうか?
物ではなく、気持ちで返してもらうのって悪くないなと杏子は思った。
確かにあの件はまるで杏子の喉の奥に引っかかった魚の小骨のようにずっと、そしてひっそりと心に残っていたのだった。
進藤さんにそう言われて、やっと小骨が取れた感じだった。
「で、進藤さん。今日は何ですか?」
杏子は自分でもしらじらしいと思ったが、いつもより進藤さんに心を開いてみた。
「特にないんだけど、この前の五島君があまりに失礼だったから、杏子ちゃんどうしてるかなと思って。」
進藤さんは本当は優しいのだ。
ちゃんと声に出して
「気にしてくださってありがとうございます」
と進藤さんに伝えた。
「まぁさ、ああいうの見て自分はそうなっちゃいけないなと思えばいいんだよ。」
「おれもさぁ、昔の会社でさぁ、変な奴がいてさぁ。話せば長いんだけど…」
本当に長かった。
そこからしばらく杏子は進藤さんのまわりくどい話を聞く羽目になった。
それでも慰めに来てくれたんだと思うと、精いっぱい脳を機能させず、聴覚だけを傾けて最後まで我慢した。
そして進藤さんは、気持ちよく話を終えて、杏子ににっこりと笑いかけて、すっと立ち上がり自分の仕事に戻って行った。

渦中の五島さんはあの事件以来、用事が無い限り杏子の前に現れなかった。
杏子にとっては好都合だった。
出来れば話もしたくなかった。
それでも仕事は仕事、出来る限り普通に振舞っていた。
そもそも、いつも杏子の都合などお構いなしに、どうでもいいことで邪魔しに現れ
かき乱しては去っていくのは五島さんだけで、杏子からは何もしかけたことは無かったのだ。
勝手にちょっかい出して、勝手に怒って、勝手に距離を置かれていたのだ。
杏子は思った。
自分をこの低レベルな感情の戦いに貶めることはいけない。
そうして平静を保つ覚悟を決めた。
事あるごとに極めて平穏に五島さんに仕事の話をした。
五島さんはかなり拍子抜け立ったようだ。それが丸わかりだった。
彼は誰かに当たり散らしたかったのだろう。
その標的は杏子だったのではないか。
彼はある意味追い詰められていた。
名取総一郎と言う40歳近い、くそまじめな上司が2週間後にはやって来るのだ。
今までのいい加減な行き当たりばったりの仕事を、いかにもちゃんとやってましたよ!と言える程度に整えないとまずいのだ。
彼はファイルもいい加減なら、以前の記録もほとんど取っていなかった。
それは杏子が一番よく知っている。
なぜなら、タンさんに尋ねられるたびに杏子に頼ってくるからだ。
杏子は、どんなやり取りも全部取っていた。
タンさんに尋ねられる時はもとより、他のスタッフの誰もが杏子の記録をあてにする時が
あった。
そういう時にはちゃんと役に立ちたかった。
実は杏子は以前から自分の方でも過去の総務経理関係のものは、ファイルを作って保存していた。
あくまでも忘れない程度にと思ってのことだった。
そしてもちろん自分のためだ。
また、いちいち五島さんに尋ねなくても済むようにとの考えてのことだった。
杏子のファイルはおそらく五島さんのそれよりもはるかにしっかりと出来ている自身があった。
五島さんはどうやって名取さんにこれまでの仕事を説明するのだろうか?
まぁ、会社の経理システムにログは残っているので、経理について致命的な事態は起こらないだろう。
むしろ総務関連の、細かい業者とのやり取りなどが残っていない可能性が高かった。
五島さんは仕事に関しては全くクリエーティブではなく、入社当初言われたことだけをやればいいと思っていたのだ。
そこさえやってしまえばあとはどうでもいいとも思っていたようだった。
その証拠にタンさんに以前の事を尋ねられると、大体は自分の記憶にだけ基づいてアバウトに答えていた。
名取さんが入社するのは2週間後だ。
そのうちタンさんにいろいろ準備しておくようにと言われるはずだ。
杏子には五島さんを手助けする気は全くなかった。
その必要もないと信じ切っていた。
たぶん、五島さんも杏子には絶対頼みたくないと思っているはずだ。
杏子は五島さんとは一定の距離を保つのが、いちばん良いと思っていた。

その日の夕方、杏子はもう帰ろうとバッグをゴソゴソやっていた。
ふと何かを感じて顔を上げた時、そこにあったのは杏子を睨みつけながらドアから入って来た五島さんだった。
杏子は彼に何も危害を加えていない。
睨まれる理由はなかった。
ただ一つ考えられるのが、名取さん入社までに自分がやらなければいけないことの多さとその必要書類の無さに自分自身にいらつき、どこかに矛先を向けようとしている自分勝手な理由だけだった。
杏子は軽く視線を流して無視した。
心の中で、五島さんのあまりの女々しさに、
「玉無し」
と名付け、映画千と千尋の神隠しのテーマ曲をハミングして、バッグを持って立ち上がったのだった。