どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

エピ44 - 幹事の敵は漢字?

タンさんの旧正月の休暇から、空港スタッフと総務経理課長の採用に至るまでのほぼ1カ月半は、杏子にとって時間の感覚を麻痺させる以外の何物でもなかった。
個々の事柄は予定通りこなしていたはずだったが、すべて通り過ぎてふと振り返ると、1月の仕事始めの日がつい昨日のような感覚だった。
どんな長い過程でも、その間必死でこなしていると、振り返った時にはその長さが始める前のとてつもなく長い時間の予測よりはるかに短くなっていた。
唯一その時間の長さを実感させてくれるのは、溜まった残務の量ぐらいだった。
タンさんにしても、田中さんにしても、2日間を採用面接に費やすと、その間後回しにしていた仕事が見事なまでに蓄積していた。
それぞれ、杏子や水沢さんが補佐としてある程度の仕事を片づけていても、どうしても
支社長や営業部長の立場でしか片づけられないことは多かった。
田中さんは失った時間を取り戻すべく、いつもより早く出社し、さっさと営業に出かけ遅くまで帰って来ず、また帰って来てからもこれまた遅くまで営業戦略や実績の確認などに時間を費やしていた。
一方タンさんも、気が付けば月末で、当月の実績報告や翌月の目標設定などで、進藤さん、かおりさんと次々と会議をしながら、情報を収集してレポートの準備を進めていた。
おかげで、そのあと杏子に回ってくる文書作りや本社への報告など業務が徐々に増えて行った。
それでも、ソラリア航空に勤めて半年以上の杏子にとっては想定内の忙しさだった。

そんな杏子にも想定外があった。
田中さんがある日杏子のデスクにすり寄って来た。
「杏子さん、杏子さん」
声をひそめたつもりらしいが、田中さんの地声はただでさえ大きい。
彼の囁きは、普通の声の小さい人の大声レベルを超えている。
「なんですか?内密のお話でもあるんですか?」
とわざと冷たく返す杏子。
「さすが、杏子さん。するどいねぇ。」
そんなとこで褒めたって聞ける事と聞けないことがあるぞ!
杏子は一層構える。
「じつはさぁ。今週金曜日の昼、このビルのテナントの月一定例会議があるんだよね。おれ毎月出てるんだよ。普通は各社の代表が出るんだけど、うちはさぁ、ほら外人じゃないか。無理だろ?それで俺なんだよ。テナント同士の親睦をはかりつつ、ビル全体としてのより良い環境作りとかナントカ言っちゃってさぁ。業務に影響ないランチタイムにやってんだよな。毎月そのための会費を会社で払ってるしな。だから、豪華お弁当つきだよ。すごいぞ!でさ、悪いけど今週代わりに出てくれないかな?」
「出て、弁当食ってりゃいいだけだからさ。杏子さん代わりに出てくれる?」
田中さんは精一杯甘えた顔でもしたつもりだろう。
杏子は、
「全然いいですよ。」
と返事した。
「ありがとう!杏子さん!恩に着るよ。今週はちょっと忙しくてね。」
「いえいえ、豪華お弁当が出るなんてそれだけでも嬉しいです。行ってきます。」
「じゃあ、早速管理会社に杏子さんが出ること連絡しておくね。ありがとうね。」
田中さんは、嬉しそうに自分の席に戻って言った。

タンさんは、それを支社長室から全神経をとがらせて聞き耳を立てていたのだろう。
適当に時間をおいてから、
「ナカノサン!」
と杏子を呼ぶ声がした。
杏子が飛んでいくと、
「タナカは何の話だったの?」
と予想通りの質問が来た。
「金曜日のビルのテナント会議に代わりに出てほしいと頼まれました。」
と杏子が答えると、タンさんは明らかにほっとした表情で言った。
「あぁ、あれか。日本語の会議だからね。タナカが無理なら、仕方が無いから出てやってく
れ。あれにうちは年間6万円も管理会社に会費を払ってるんだよ。最初にそれを聞いた時
は納得行かなかったけど、うちみたいなお客商売はたとえ隣近所でもちゃんと顔つなぎし
ておく方がいいからね。お弁当も出るらしいから、楽しんで行ってくるといいよ。ありが
とう。」
田中さんが意味もなく声をひそめるから、タンさんは怪しんだのだろう。
そんな分かりやすい密談しませんよ!
とりあえず誤解は解けた。
一瞬杏子は思った。
テナント会議だったら総務経理の五島さんでも良かったのではないだろうか?
そして自分で打ち消した。
無理だな。
変人過ぎて恥ずかしくて会社代表としては出してはいけない。
自己完結で納得した杏子だった。

前日にテナント会議のアジェンダ(議題)が文書で届いた。
まず、各テナントのポストに入っているものを五島さんが取り出し田中さんの所に持って行った。
次に、田中さんがそれを杏子に手渡した。
杏子は早速封筒を開けて中を見た。
そして慌てふためいた。
幹事の3社の所にソラリア航空の名前が、さらにその横に自分の名前があったのだ。
なんで?
田中さんの所にその紙を持って飛んでいく。
「た、た、田中しゃん!」
日本語にまで杏子の心の乱れが現れた。
「私幹事になってますけど。」
田中さんが杏子の紙をガバッと奪い取った。
「やべっ!忘れてた。そう言えば、3カ月ごとにテナントの3社ずつで持ち回りで幹事して
たんだよ。それで、司会進行を1人ずつやるんだった。今月俺だよ。ごめん!いつも弁当
食べて、隣に座った人としゃべってばかりいるから、すっかり忘れてた。」
「えぇ~っ!」
と言うだけがやっとの杏子。
「杏子さんなら大丈夫だよ。台本は管理会社が作るから、しかも全体の進行は管理会社の人
間がやってくれるから。だから。杏子さんはその台本読めばいいんだよ。いい?ごめんね!」
豪華お弁当の代償がこれか。
杏子の心は、地球の裏側までずぶずぶと沈んだ。
田中さんは本気で忘れていたのだろう。
恨んでも仕方が無い。
あぁ、台本なんて…
読めない漢字があったら恥ずかしい。
とりあえず、当日早めに行って台本読んでおけばいいか。
難しい漢字にはあらかじめ読み仮名を付けておけば何とかなるさ。
国語の本読み依頼の緊張感。
しかもそれは大昔。

金曜日の11時45分ぴったりに、杏子は早めにテナント会議の会場となる6階の大会議
室へ行った。
そこには、準備中の管理会社の人々がいた。
「こんにちは。ソラリア航空の中野です。本日田中の代理で出席させていただきます。
よろしくお願いします。」
すると、管理会社の部長である、鬼頭さんが杏子の所に歩み寄って来た。
「今日はいきなりの幹事ですみませんねぇ。」
「いえいえ、精いっぱい努めさせていただきます。それで、漢字とか読めないと恥ずかしい
と思って早めに台本と言うか議事進行の書類を拝見しようと思い参りました。」
杏子がそう言うと、鬼頭部長は
「なんと真面目な。」
と感動して、書類を杏子に渡した。
杏子は早速目を通した。
やはり、読めない漢字がいくつかあった。
それは人の名前だったり、会社名だったりした。
その都度、鬼頭部長に確認して、ふり仮名をふった。
これで何とかいけるかも。
杏子はやっと落ち着いた。
進行役の幹事の席は、真正面のいわゆる記者会見席だった。
杏子がど真ん中に座り、そのわきに管理会社の面々が座っていた。
ここでお弁当を食べるなんて、まるでさらしものじゃん!
と思ったが、よく考えれば、それぞれお弁当を食べるのに忙しくて、誰も杏子を見てもい
ないことに気が付いた。
杏子も唯一の楽しみのお弁当に手を付けた。
最初の15分は出席者全員が黙々とお弁当を食べる時間となっていた。
その後、鬼頭部長の合図で杏子は会議の開始を伝えた。
「では、皆様そろそろお食事も終わられた頃かと思いますので、会議を始めたいと思いま
す。」
引き続き、杏子は自己紹介をした。
「本日は私ソラリア航空の中野が進行させていただきます。よろしくお願いします。」
いよいよ本題だ。
「では、本日の議題1から、まずは、退会が2社あります。」
社名と代表者を読み上げた。
「次は、入会が1社あります。えぇーっと、株式会社」
そこまで行って杏子ははじめて気が付いた。
なんだか長いカタカナ名だ。
「ヴィルヘルム・ミュンスターバーグ・シュべ シュベルべ…」
「大変失礼しました。ヴィルヘルム・ミュンスターバーグ・ショベべル、あっ!すみません!」
「ヴィルヘルム・ミュンスターバーグ・ショべ・ルス・キー・コーポ・レ―・ション様」
ぶつ切りにしてなんとかやっと最後まで言ったようで、実は結局間違っていた。
でも杏子にやり直す気力は残っていなかった。
そのまま突っ切った。
心の中でそのナントカカントカという会社の代表の人に謝った。
本当はショベルスキーではなく、ショベルべースキーだった。
杏子にとってはもうどうでもよかった。
あちこちから失笑が漏れる。
恥ずかしい。
「次は、管理会社からのご報告です。」
と鬼頭部長にバトンタッチした頃には杏子はもう放心状態だった。
会議が終わるまで杏子はずっとへこんだままだった。
すべて終わって、閉会の言葉を述べて立ち上がった杏子に鬼頭部長が声をかけた。
「お疲れ様でした。」
鬼頭部長の目が笑っていたように見えたのは杏子の被害妄想だろうか?

杏子は油断していた。
敵は漢字だけではなかったのだ。
そう、真の敵は長いカタカナ名だった。
これから「カタカナを笑うものはカタカナに泣く」と座右の銘にしようかと考えながら、重い足取りで階段を下りて3階のオフィスに戻った杏子だった。

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