どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

秘書の休息 - 頭は使うためにある (エピ37)

タンさんが休暇に入ってもう1週間が過ぎてしまった。
つまり杏子にとっての楽園生活が半分終わったということだ。
楽しいときは時計も見ない。
ゆえに時間はあっという間に過ぎる。

田中さんはすでにJapan Daily Newsという英字新聞に懇意にしている人がいて、
スタッフ募集広告の件についてもう話をしてあるとのことだった。
あとはタンさんのゴーサイン待ちとのこと。
いつもながらの素早い行動だ。
この件については、タンさんも文句は言わないだろう。
あの二人はだいたいいつもどうでもいいようなつまらないことで揉めることが多い。
お互い完璧主義で突っ込みどころがそこしかないからだろうか?
揉めてもいいけど、あとでそれぞれが相手への愚痴を杏子に聞かせるのは是非ともやめていただきたいと切に願う。

杏子は誰かに追い立てられることもなく、のんびりと仕事をしていた。
多少の邪魔が入ったとしても、タンさんがオフィスにいる間の精神的な圧迫感は全くないことがうれしかった。
ストレスフリーな世界。
タンさん宛のメールはすべて杏子が代理としてチェックしていた。
その中に何か緊急を要するものがあるわけでもなく、また、返答を要するものもタンさんでなければいけないというものは無かった。
したがって、杏子が代理として返答した時もあった。
さすがにほとんどの中国系が休暇を取る期間だ。
会社全体がなんとなく静かになっているような気さえした。

空港からの社内便は週3回届くが、その中にもとりたてて気に留める書類もなく、杏子は内容を確認してまとめておくだけでよかった。
その週の水曜日に届いた社内便も、五島さんが宛名どおりそれぞれに配布した。
支社長宛の封筒はすべて杏子のところに来る。
それを杏子は一つ一つ開封していく。
その日、杏子は1通だけ、社内便用封筒の中にまた封筒というものを見つけた。
中国支社から転送されてきたものだった。。
中身の封筒は郵便物だった。
日本国内ではなく中国のもののようだった。
宛名も差出人も中国語で書かれていた。
杏子はタンさんの中国名を漢字でどう書くのかはもちろん知っていた。
宛名はタンさん宛だった。
差出人は男女の区別もつかない。
杏子は何も考えずにとりあえずはさみでチョキチョキと封筒の端っこをミリ単位で切って開封した。
中身は便箋3枚で、中国語なので何が書いてあるかはほとんどわからなかった。
ただ、我愛とか寂しいとかいう字だけ目に付いた。
なんだか親密な内容の手紙だ。
これは見てはいけないものじゃないのか。
そう思ったのと同時に、杏子はあることを思い出した。
タンさんが休暇に入る前の慌ただしい中でのことだった。
引継ぎというよりは、タンさんが何かの際に突然思い出したように言ったことだった。
「僕に届く書類は全部開封していいから。でも私信だけはそのまま開けないように。」
タンさんは確かそう言っていた。
その話自体極めてさらりと流されたので、杏子はあまり気に留めていなかった。
それがいけなかった。
確かあのとき私信とは何を指すのかと一瞬疑問には思ったのだ。
でもそのままにしていた。
そしてタンさんは休暇に入ってしまった。
杏子は今になってやっとそのことを思い出したのだ。

これがあの時言っていた私信なのだ。
思い切り開封してしまった。
どうしよう!
杏子は考えた。
久しぶりに頭を使った。
でも、頭に浮かんでくるのは、ありもしない妄想ばかりだった。
たとえば、
時間を巻き戻す方法はないのか?
とか。
できれば社内便を五島さんから受け取った瞬間に戻りたい。
タイムマシーンがあればいいのに。
現実にはそんなものはない。
はたまた、
どこかの科学者が、切った紙を完璧に繋げて元に戻す接着材を発明していないか?
とか。
あったらとっくに世間が騒いでいる。
やっぱりそんなものはない。
考えては否定というプロセスを2回繰り返したところで一息つく杏子。
巨大な絶望という名の岩が杏子の上にどんと落ちてきた。
その上にタンさんが乗っている。
それも妄想の続きだった。
果てしない妄想ワールド。
杏子はなんとか冷静に現実を見つめようともがいた。
杏子の予想が正しければ、タンさんが杏子に浴びせる言葉はストゥーピッドだ。
それ以上にこの状況に当てはまる言葉は浮かばない。
うなだれる杏子。

「杏ちゃん、ランチ行こ!」
かおりさんに声をかけられて、やっと我に返った。
杏子は自分が昼まで悶々としていたのかと情けなくなる。
そう言えば、朝、かおりさんとランチの約束をしていた。
お腹が空いていてはいい考えが浮かばない。
ご飯を食べればいい考えが浮かぶかもしれない。
そう思いながら立ち上がる。
この期に及んで往生際の悪い杏子。
ランチの間、かおりさんは杏子の様子がどこかおかしいと思っていたようだ。
「杏ちゃんなんかあったの? なんだかうわの空みたいだけど。」
と聞いたりする。
そのたび、杏子は、
「そう?そうでもないけど。変に見える?そんなことないよ。」
などと返事するはするものの、その先からため息が出てしまう。
最近はタンさんのお叱り時間が短縮されていたのに、久しぶりに1時間コースかもしれない。
あれ立ちっぱなしできついんだよね。
一人でぶつぶつ言う杏子。
かおりさんが変な顔で見ている。
「ごめん。ごめん。ちょっと思い出したことがあって。どうでもいいことなんだよ。」
食べたことすら覚えていないようなランチだった。
ただ、とりあえずお腹はいっぱいになった。
杏子は、オフィスまでの帰り道、外の冷たい空気に触れて、やっとちょっと冷静になった。
デスクに戻った頃には、ついに観念した。
杏子は付箋を手に取り、まずそこに英語で、
「すみません。うっかり開けてしまいました。今後気を付けます。」
と書いた。
そして、それをはさみで切ってしまったタンさん宛の私信の封筒にくっ付けて、まとめてホッチキスでパチンと留めた。
1回怒られるのも30回怒られるのも一緒だ。
今まで死ぬほど怒られまくった杏子さんだぞ!
ついに杏子は居直った。
午前中ずっとノーベル賞の奇跡など無駄なことを祈ってじたばたしていた女とは思えない。
最初からそうすればよかったのだ。

杏子は、やっと、タンさんが帰国してからこれまで、いかに自分が緊迫感のない仕事をしていたかということを自覚した。
少しでも頭を使って仕事をしていたら、封筒を空ける前にいったん考えただろう。
のびのびと浮かれすぎたのだ。
楽してバチが当たったのだ。
もうちょっと緊張感を持たないといけなかった。
もうすぐタンさんが戻ってくる。
いつまでもこんな状態ではいけない。
この事件は気持ちを切り替えるちょうどいい機会だ。

秘書という仕事には常にボスの存在が付いて回る。
逆に言うと、ボスがいなければ秘書はいない。
そこに今いなくてもボスの一部としてふるまうことが要求されるのだ。
ここぞとばかりのびのび過ごしていた自分を恥じた。
もうすぐあののび太顔と再会だ。
気を引き締めていかないと!
心に誓う杏子。
不謹慎なのか真面目なのかよくわからない杏子だった。