どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

秘書の休息 - ないものねだり(エピ36)

 

 人の心は意外と単純に出来ているのかもしれない。

 

ほんのちょっと褒められただけでまた頑張ろうと思ってしまう。

 

田中さんが言った「俺って見る目あるよな」は杏子にとっては変な栄養ドリンクよりも何倍も効果があった。

 

確かに杏子は毎日タンさんに怒られまくっていた。

 

今では怒られ過ぎて慣れていた。

 

そもそも杏子の不注意が原因なので仕方ない。

 

杏子が理不尽だと感じるようなお叱りは一回もなかった。

 

たまにタンさんと立場が逆転していたこともあったが、それは1万回あったら、たったの2回くらいだ。

 

2勝9998敗だ。

 

スポーツ選手ならとっくに引退している。

 

それでも、田中さんの言葉でまた9998回怒られてもいいかなと思う杏子。

 

よく考えたら、怒られる原因を作らなければ9998回怒られなくていいのだ。

 

そこに気が付いた杏子は深く反省した。

 

 

 

2週間のボスの不在は杏子に精神的休息を与えてくれた。

 

杏子は毎日何かに追い立てられているような状態から解放されていた。

 

おかげで滞っていた雑務を片づけながら、まわりを冷静に見ることが出来た。

 

ただ、実際には、ゆっくりと雑務処理に専念できると喜び勇んで出社しても、結局、夕方退社する頃にはこんなはずではなかったとため息をつく羽目になるような毎日だった。

 

世の中なんでも思い通りには進まないものだ。

 

まず第一の原因は、いつにも増して杏子のデスクに人が寄りつくことだった。

 

みんなと離れた場所に杏子のデスクはあった。

 

ただし、タンさンのいる支社長室の真横だ。

 

普段はあまり寄りつかない場所のはずだった。

 

しかし、タンさんがいない2週間に限っては、オフィス内の近場のリゾート地的場所になった。

 

そこには、杏子の都合などお構いなしに、お悩み相談所 兼 休憩所と思ってやって来る人がいた。

 

 

 

五島さんは相変わらずどうでもいいことを嬉しそうに運んでくる。

 

それでも杏子は毎回、今度こそ何か仕事に関わる大事なことだと思って丁寧に対応した。

 

そして、その考えは毎回いとも簡単に覆された。

 

「ねぇ、僕って天才かも。いい詩が書けたんですよ。見てくださいよー。」

 

なんで私が見なくてはいけないのか?

 

そんなものを持って来るな!

 

と思いつつ、なんとなく見てあげたりして、すぐさま見て損したと後悔する杏子だった。

 

そこらへんのスーパーのPOPの方がもっとしゃれた事書いてあるわ!

 

時間の無駄以外の何物でもなかった。

 

彼は詩の才能はナノ単位もない。

 

ゆえに、杏子はしっかりと宣告してあげた。

 

だが、残念なことに、五島さんという男は不屈の魂の持主だ。

 

きっとまた何か次の手で近寄ってくるのだろう。

 

杏子は不屈という言葉が恨めしくさえ思えた。

 

たまには屈しろ!

 

 

 

進藤さんも相変わらず英語に直してほしいと思う原稿を持ってやって来る。

 

だから、その「であります」調は要らないって!

 

 

 

杏子はそんなわずらわしさも含めて全部自分の仕事の内だと無理やり理解するようにしていた。

 

 

 

ある朝、さすがの杏子も気が緩んだのか寝坊してしまった。

 

そして、いつもよりかなり遅く会社に着いた。

 

遅刻ではない。

 

ただ、杏子基準では遅かったのだ。

 

いつもなら、タンさんの机を掃除したり、会議室も軽く片づけ、

 

コーヒーサーバーにコーヒーを入れるところまでやるのだが、全く時間が無かった。

 

沙羅ちゃんはどうしたことか、そんな杏子に気が付いて、

 

「杏子さん、たまには私がコーヒーの準備しますね。」

 

とぽっちゃり可愛く笑ってスタッフルームの方へ行った。

 

小さな声で沙羅ちゃんにありがとうと言う杏子。

 

そしてカウンターも始業。

 

杏子は朝のルーティンワークをこなし、ちょっと一息ついた。

 

そしてコーヒーでも飲もうと考えた。

 

すでに沙羅ちゃんの淹れてくれたコーヒーのいい香りがオフィス中に漂っていた。

 

自分のマグカップにコーヒーを注ごうとして見るとどこかがおかしい。

 

コーヒーの入った耐熱ガラスポットの黒い取っ手を持ちあげた瞬間に分かった。

 

挽いたコーヒー豆の細かい粒が全部ポットに入っていた。

 

これは新しい。

 

一体なんという飲み物か?

 

無数の細かいありんこのようなものが浮いたり沈んだりしていた。

 

なんでこんなことにと思い、杏子はコーヒー豆をセットするトレーを開けてみた。

 

無い!

 

ペーパーが敷いてない!

 

度肝を抜かれるその光景。

 

どうしよう。

 

杏子はたぶんそこで立ったまま一瞬気を失った。

 

沙羅ちゃんがせっかく好意でやってくれたが、言わないとまたこんなことが起きる。

 

今言っておかなければ!

 

意を決した杏子はカウンターに向かった。

 

カウンターを細く開けたドアの隙間から覗いてみると、幸いまだお客さんもいないし、電話も鳴っていない。

 

杏子は、

 

「沙羅ちゃん」

 

と小さく声をかけた。

 

沙羅ちゃんがドアの隙間から呼ぶ杏子に気が付いてくれた。

 

杏子は手招きして

 

「ちょっとこっちに来てくれる?

 

と言うと、沙羅ちゃんはすぐにドアの方に来てくれた。

 

「ねぇ、沙羅ちゃん、ちょっとこっちに来てくれる?

 

と杏子がお願いすると、

 

「いいですよ。何があったんですか?」

 

相変わらずのぽわんぽわんの雰囲気。

 

沙羅ちゃんを連れてスタッフルームのコーヒーサーバー前まで行き、

 

そして重要事項を伝える、

 

「ねぇ沙羅ちゃん、コーヒー入れる時、ペーパー敷くの忘れたみたいだよ。ほら。」

 

とその頃にはありんこ状の物がほぼ沈んだ状態のコーヒーを見せた。

 

「えっ、ペーパー敷かないといけないんですか?そんなことどこも書いてないですよ。」

 

それは沙羅ちゃんならではの開き直りだった。

 

もう杏子はそんなことでは驚かないのだ。

 

「ここ。」

 

とトレー挿入口の前面の説明書きを指差してあげた。

 

「あ…」

 

と言ったきり無言の沙羅ちゃん。

 

これが沙羅ちゃんなのだ。

 

杏子は言った、

 

「コーヒー淹れてくれたのは本当に嬉しかったんだよ。ありがとうね。でもね。

 

これでは、コーヒー1袋無駄にしたことになるし、もう一回洗ってお掃除しないとダメなの。大変だよね?今度は気を付けようね。」

 

すると沙羅ちゃんは本当に申し訳なさそうな顔で、

 

「はい。すみませんでした。」

 

と顔を真っ赤にした。

 

「私今から洗って掃除して、もう一回やります。」

 

と片づけ始めた。

 

杏子は沙羅ちゃんが理解してくれてほっとした。

 

そして自分のデスクに戻った。

 

しばらくして、またコーヒーのいい香りがしてきた。

 

念には念をと杏子がコーヒーか確認しに行ってみると、今度はおいしいコーヒーが入っていた。

 

よし!

 

早速メールで

 

コーヒーありがとう。おいしいよ!

 

と伝えると、

 

5秒で沙羅ちゃんから返信が来た。

 

よかった。杏子さんがちゃんと教えてくれたからです。

 

ありがとうございます。

 

早すぎる!

 

暇か?

 

しかも教えるも何もそこに説明書きがあっただけだし。

 

沙羅ちゃんは人より3倍教えるのに手間がかかるタイプだ。

 

ただ、ちゃんと教えれば理解してその通りにやってくれる。

 

思い込みも激しいが、同時に激しく素直だ。

 

 

 

沙羅ちゃんは、タンさん不在中にもう一つ事件を起こした。

 

ある日の夕方、いつも五島さんから来る本日の売り上げを報告するメールがなかなか来なかった。

 

カウンターは5時に閉めるので、大体5時半までには来るのだ。

 

おかしい。

 

杏子は気になって、カウンターの裏のバックオフィスに行ってみた。

 

そこには、カウンターの3人と五島さんが一生懸命書類を調べている。

 

杏子が尋ねると、訳のわからない38円の振り込みがクリストファーという人からあったということだった。

 

38円振り込みなんて仰天だ。

 

カウンターの全員がそんな金額に身に覚えがないと言うことで騒ぎになっていた。

 

旅行代理店からの支払いは振り込みか小切手だ。

 

金額は小さくない。

 

だから関係ない。

 

一般顧客は現金かクレジットカード。

 

だが、たまに、振り込みでも受け付けることはある。

 

あれこれ話合っているうちに、香奈ちゃんが

 

「あっ!」

 

と言った。

 

そして沙羅ちゃんに向かって、

 

「ねぇ、電話で外人のお客さんとチケットの変更の話してなかった?

 

「あ…」

 

「しました…」

 

「それこんな名前じゃなかった?」

 

香奈ちゃんさすがに鋭い。

 

人の失敗は許さないタイプだ。

 

「この人と同じ名前です。クリストファーさんです。」

 

沙羅ちゃんが思い出したようだ。

 

「でも38円のはずないです。ちゃんと伝えました。3000円くらいです。」

 

すると、かおりさんが、

 

「ねぇ、それ円とドルと伝え間違えたとか。」

 

航空券の代金の基本はUSドルなのだ。

 

それを販売する国の通貨に換算していた。

 

「いえ、ちゃんと伝えました。」

 

「電話で?

 

「メールです。」

 

「そのメールある?

 

「はい。」

 

みんなで沙羅ちゃんのパソコンへ急いだ。

 

そしてパソコンを覗きこんだ5人は全員口を開けたまま固まった。

 

そこには

 

Please remit JPY38 to the following bank accout.

 

(日本円で38円を下記の口座に振り込んで下さい。)

 

と書いてあった。

 

誰もがどんなに目をパチクリしても、こすっても38円だ。

 

沙羅ちゃん、あなたという人は…

 

沙羅ちゃんが、

 

「ぎゃーーーっ!すみません。最初にドルで書いておいて、そのあとに日本円で計算しておきかえてから送信するつもりだったんですぅ!」

 

あり得ない。

 

と絶句する残りの4人。

 

沙羅ちゃんもあり得ないが、わざわざ振り込み手数料を払ってまで38円を素直に振り込んで来たクリストファーさんもあり得ない。

 

余程のお金持ちか。

 

それとも単なるバカか。

 

杏子はクリストファーさんを頭の中で沙羅2号と名付けた。

 

誰もが同じことを考えたようで、かおりさんは、

 

「この人もこの人だよね。38円の訳ないじゃん。安いなぁって喜んだのかね。でも振り込み手数料払ってんだよ。訳わかんない。」

 

全員、ヘビメタのコンサートのように激しく縦に首を振る。

 

沙羅ちゃん、あなただけは加わる資格はない!

 

かおりさんが続ける、

 

「でもさ、沙羅ちゃん。メールとかさぁ、送信する前に見返さないの? そこ大事だよ。次からは気を付けてね。そしたらこんな騒ぎにならないから。分かった?」

 

沙羅ちゃんは真っ赤な顔で、

 

「はい。みなさん、すみませんでした。今後気を付けます。本当にごめんなさい。」

 

と頭を下げた。

 

「じゃあ、今からクリストファーさんにメールして差額を振り込んでもらうように伝えて。金額間違わないでね。で、ちゃんと謝るんだよ。分かった? もしも文句言われたら、私が代わって謝るから。明日言って。」

 

とかおりさんは指示した。

 

そのあと、かおりさんは、五島さんにも

 

「五島君ごめんね。今日は一部38円だけ入金と処理しておいて。差額は明日には入ってくるから。」

 

と話したかおりさん。

 

 

 

香奈ちゃんは、かおりさんが沙羅ちゃんにお説教している間に、そそくさと帰って行った。

 

それから30分ほどで、かおりさん、五島さんも帰って行った。

 

杏子は、騒ぎ勃発の時にちょうどやりかけていたことがあったので、それを片づけるために残っていた。

 

 

 

そこへすべての落とし前を付けた沙羅ちゃんがやって来た。

 

「杏子さん、今日はすみませんでした。」

 

とまた頭を下げた。

 

「もう起こった事はしょうがないし、何とか手当てが出来たからいいと思うの。大事なのはもう同じことを繰り返さないことだよ。」

 

「私ちゃんとメール見返してから送ったんです。」

 

この期に及んでもまだ言い訳する沙羅ちゃん。

 

「でも間違っていたよね?人って思いこむと気が付かないんだよ。もう一回見返すようにしているんなら、これからはさらにもう一回。合計2回見返すことだね。」

 

と杏子は自分が以前タンさんに言われたその言葉を堂々とパクった。

 

「そうします。ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します。」

 

と言って沙羅ちゃんはとぼとぼ帰って行った。

 

 

 

騒ぎのときに、38という数字を聞いて即座に自分が原因と思いだすのが普通だとは思う。

 

忘れる方が難しい。

 

でも沙羅ちゃんだ。

 

しかも現実に起こったのだ。

 

あり得るのだ。

 

彼女には今後どうしたらそんなことが起こらないかを教えることが大事だ。

 

でも、頭ごなしに否定されると言い訳に走るのが沙羅ちゃんだ。

 

人には怒られて伸びる人と、褒められて伸びる人がいる。

 

沙羅ちゃんは絶対に怒られたらそのまま意地になって自滅するタイプだ。

 

怒られると自己防衛本能がああいう形で働くのだろう。

 

彼女の指導方針が分かっただけでもいいじゃないか。

 

明日かおりさんとランチに言ったらその話をしよう。

 

そんなことを杏子は考えた。

 

 

 

本当は、杏子だって褒められて伸ばされたい。

 

どう記憶を辿っても、タンさんに褒められたことなんて一回もない。

 

一回ぐらい褒められてみたいなぁ。

 

ちょっと悲しくなりつつも、ないものねだりの杏子だった。

 

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