どうせなら笑って過ごそうよ!

闘う杏子さんのお話 日常の中の笑いの数々 笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ一生。それなら笑って過ごしたい!

秘書の底力 - どっちが上司か(エピ34)

1年の計は元旦にあり。

日本人にとっては、11日が元日だ。

お正月なのだ。

新しい年の幕開けだ。

だが、世界中が新年明けましておめでとうと騒いでいるわけではない。

旧正月は、日本がお正月と騒いでいるそのほぼ一カ月後にやって来る。

英語では、Chinese New Yearと呼ばれる。

中国系の人にとっては春節と呼ぶのが正しいらしい。

航空業界では、世界中に広がっている華僑の民族大移動の時期だ。

ソラリア航空でも中国本土へ向かう便はひとつ残らず満席だった。

キャンセル待ちの数も普段あり得ない人数だった。

そして空港自体が恐ろしく混雑する。

 

杏子にとって、それまではChinese New Yearは完全に別世界の話だった。

だが、中国系ソラリア人の秘書となった今、状況は大きく変わった。

タンさんは1月末の里帰り目前で、すでにそわそわしていた。

ほぼ2週間の休暇に入るのだ。

不在の間、業務はすべて田中さんが代理として全体を見ることになっていた。

その点は心配していなかった。

心配だったのは別のことだった。

タンさんは、杏子があれほど早めに行っておこうと言っていた法務局での再入国許可証取得をずっと先延ばしにしておきながら、帰国まで1週間ないこの時期になっていきなり慌て始めた。

そして、急に、明日行くと言いだした。

だから、あんなに前から言ってたのに!

この夏休みの宿題的展開は、これまでも何回かあった。

タンさんのこういうところは杏子にとって理解できない部分だった。

幸い、杏子はすでに必要な手順を調べていた。

まず、本人が出頭しなければいけない。

出頭なんてまるで警察みたいだけど。

次に外国人登録証とパスポート。

そして申請書に手数料の6000円。

手数料は収入印紙で支払う。

そして居住地を管轄する地方入国管理局に行くのだ。

発行自体はその日の内にしてもらえる。

受付時間は、平日午前9時から午前12時と午後1時から午後4時だった。

場所は品川なので遠くない。

丸さんに送ってもらって、終わったら、また呼べば迎えに来てくれる。

でも、そこに着いたからと安心してはいけない。

どの課に行くかで迷うことも良くある話だ。

そんな杏子の心配をよそに、タンさんは近場だということで安心していた。

杏子が10時半には絶対出ようと言ったのに、

「心配しなくていいよ。大丈夫だから。」

と平気な顔をして言い放った。

そのまま、うだうだと11時過ぎた。

もう駄目だ!限界!

と思った杏子は我慢できずに、無理やり丸さんを呼んで強硬出発することにした。

秘書がボスをずるずる引きずり出す感じだ。

着いたら1150分。

ほら、見ろ!

完ぺきにまずいじゃないか!

受付は2階だった。

急いで2階へと上がる。

タンさんは一向に慌てる風がない。

杏子は自分だけどんどん先に言った。

タンさんに対しては、

ちゃんとついて来い!

と心の中で思っていた。

杏子はダッシュで番号札を取りに行った。

その時、1155分。

前に待っている人も結構いた。

そして、無情にも12時のベルが鳴った。

担当係は、その時対応している人と話しながら、左手で、

受付時間終了の札を窓口に置いた。

無念の瞬間だ。

ザ・お役所仕事!

杏子たちは午後1時にまた来るしかなかった。

それ見たことか!もうっ!

杏子はむすっとしてしまった。

タンさんは杏子の顔を見ようとしなかった。

うしろめたいのだろう。

杏子はたぶん冷たい目でタンさんを睨んでいた。

タンさんはタンさんで、杏子の視線をチクチク感じていたはずだ。

気まずい瞬間の後、タンさんが上ずった声で言った。

「その辺でランチでも食べよう。 ごちそうするよ。」

杏子がちらっとタンさんを見ると、捨て犬のような目で杏子を見つめていた。

仕方ない。

行ってやるか。

妙に上から目線の杏子だった。

 

タンさんはよく言う、

「日本人はなんてパンクチュアルなんだ。1分1秒許してくれない感じがする。」

時間をきっちり守る日本人にびっくりしたそうだ。

確かにソラリア人の時間に対する概念は緩い。

緩いと言うよりも、ひどい。

遅れても何とかなると思っている。

ソラリア航空で働き始めた最初の頃は、それがストレスだった。

理解に苦しんだ。

でも、杏子が縁あって働き始めた職場だ、自分を環境に適応させることがとても重要だ。

怒ってもしょうがないのだ。

 

確か、田中さんが以前言っていた。

名古屋にいるソラリア人の知り合いが、名古屋駅から新幹線で東京に行く知人の女性を見送った時、わざわざ入場券を買って駅のホームまで一緒に行き、おまけに重たい荷物を車内に運ぶ手伝いまでしてあげた。

そして荷物を置いて外に出ようとしたら、目の前でドアがプシャーッと閉まった。

結局、東京まで一緒に来てしまったそうだ。

彼は、車内では車掌さんに怒られ運賃を取られ、それはへこんでいたそうだ。

そんな彼を田中さんは自宅に泊めてあげた。

田中さんは、

「だから俺あいつに何回も新幹線の見送りで絶対車内に入るなって言っておいたんだよ。やるんじゃないかと思って。普通の電車だったらいいけど、新幹線は一気にどっか行っちゃうからさ。途中降りれないし。」

「あいつ、ソー パンクチュアル!とか言ってたなぁ。」

「日本人はこれが普通だからね。ソラリアに行くと最初たぶんイライラするけどね。そのうちそれが心地よくなるんだよ。あの緩い時間の過ごし方がね。俺そういうとこ好きだな。」

と楽しい思い出でも語るように言った。

杏子もそう理解するしかないと思った。

田中さんは心底ソラリアが好きなんだなと感心した杏子。

 

ランチはその辺の中華料理屋だった。

それしかなかったのだ。

ランチを食べている間、タンさんは饒舌だった。

まさにボスが必死に秘書のご機嫌を取る構図。

いつもと形勢逆転だった。

だからと言って、杏子が何か文句を言ったわけではない。

ただ、無言だっただけだった。

確かにその方が怖いかもしれない。

杏子にしてみれば、腹が立ったのは本当だが、その上、空腹もあっての不機嫌だったのだ。

食べ終わる頃には気をとり直し、タンさんに

「豪華なランチをありがとうございます」

とちゃんとお礼も言った。

そして、いざ再び入国管理局へと向かった。

今度はあっけないほどにすんなり終わった。

終わり次第、丸さんを呼んで迎えに来てもらいオフィスへ戻る。

すでに2時半過ぎだった。

予定は大幅に狂っていた。

 

タンさんの航空券は日本赴任に際して、年二回の往復チケットが付与される。

その申請は本社にしなければならないが、それはちゃっかり自分でやっていた。

そして、

「お土産もいろいろ買わなくちゃ。」

とわざとらしい独り言を言った。

明らかに聞いてほしい感じ。

杏子が何を買うつもりかと聞くと、

「リンゴと干しシイタケ。」

という予想外の返事だった。

杏子は、あまりにも意外過ぎて面食らった。

その様子を見てタンさんは言った。

「日本のリンゴほどおいしいのは世界にはないんだよ。」

「ブラックマッシュルーム(干しシイタケのこと)も日本のクオリティは最高なんだよ。母や妹が料理する時これがあると抜群においしくなるって言っていた。」

確かに、どんこシイタケとかまるっとして肉厚でおいしい。

リンゴは日本以外ではあまり生で食べたことが無かったので、比較のしようがなかった。

それは、杏子がデパートに買いに行くことにした。

 

結局、リンゴもシイタケもそれぞれ大量購入だった。

ソラリアでの植物検疫は大丈夫なのか?

杏子はタンさんに聞いてみた。

タンさんは、

「これを全部スーツケースに入れてチェックインバゲージにするんだよ。」

と恐ろしいことを言った。

確かにタンさんは向こうにも家があるから、荷物はそんなに要らない。

スーツケースの中身は全部お土産でも大丈夫なわけだ。

「日本のリンゴは蜜がたっぷり入っていて柔らかいから、ちゃんとクッションを入れてしまってくださいね。」

と杏子は言ってあげた。

たとえ、現地で見つかって没収されても杏子の知ったことではない。

 

月末のレポートは2月上旬に戻って来てからまとめれば間に合う。

ソラリア航空本社でも中国系は多いので、業務で何か急いでやらなければいけないことは無いはずだ。

 

そう考えている時に大事なことを思い出した、

そう言えば、倉本さん退職願いをもう出したのだろうか?

慌てて刈谷さんにメールした。

すると刈谷さんは

まだやってないらしいので急ぐように伝えるね。

とのことだった。

倉本さんもタイミングの悪い。

採用のことを考えると結構急がないといけなかった。

これはまずいと思う。

それとも辞めるのを止めたかしら?

 

杏子がやきもきしている間に、気が付けばタンさん出発の前日になった。

その日届いた社内便を空けると、倉本さんからタンさん宛ての明らかに個人的な

封書があった。

杏子はあえて開封せずタンさんの書類箱のINのところに入れた。

タンさんは1日中忙しそうだった。

倉本さんからの封書は開けたはずなのになにも言わない。

杏子は気になって仕方がない。

午後4時になっても何も起こらない。

このまま休暇に入ってしまうのはまずい。

これは聞いてみるしかない。

そう思ったと同時にタンさんが杏子を呼んだ。

支社長室に入ると、倉本さんからの手紙がタンさんのデスクの上に広げられていた。

「クラモトが2月末日で辞めたいそうだ。それは仕方ないと思う新しい人を探さないといけないけど、今は時間がない。戻って来てから考えることにするから。」

やっぱりかと杏子は思った。

タイミングが悪すぎる。

「総務・経理課長のポジションもあるから、そっちの募集もしないといけない。」

「2月に戻って来たら始めよう。」

「カリヤが空港でヘルプが欲しいようだったら、ここのカウンターから誰か行ってもらうことにしよう。その辺はタナカにカリヤと相談してもらう。タナカに任せるから。」 

この状況で、新事実を聞かされ杏子は驚いた。

今頃総務・経理課長?

普通、最初に雇わないか?

よくわからない。

なるほど、五島さんのところの机がなんだか多いのと、スペースが広いなとは思っていた。

そういうことだったのか。

そして、杏子なりに考えてみた。

たぶん、本当は総務・経理部長が必要だったが、応募してきた人の中に適材がいなかったのだろう。どう考えても五島さんは課長じゃない。

明日から長期休暇だというのに、このボスはなんでこんな重大なことをいきなり言うのか。

杏子が自分の席に戻ってからも、なんだかすっきりしなかった。

しばらくすると、タンさんは自分から杏子のデスクの方に来て、

「他に何か聞いておかないといけないことはある? 僕に急ぎの連絡がある時は、この電話とメールね。僕はもうすぐ帰るから。よろしく!」

と言った。

そのあと30分もしないうちに、タンさんはにこにこ顔で帰って行った。

これから約2週間、この採用問題は放置となった。

それでも、Chinese New Yearに浮足立つ中国系ボスをちゃんとお見送りした杏子だった。